レイフ・ヴォーン・ウィリアムズは、エルガーやホルストらとともに近代イギリス音楽を代表する作曲家の一人である。
1872年にグロスターシャーに生まれロンドンで育ったヴォーン・ウィリアムズは、幼い頃から音楽への興味を示し、ピアノや和声学を身につけていった。ロイヤル音楽カレッジとケンブリッジ大学で本格的な研鑽を積んだ後、大陸に渡ってブルッフやラヴェルにも師事している。彼は1904年からイギリス民謡協会の会員として各地の民謡を調査し、800曲を超える民謡を採集した。また同じく1904年から2年間にわたって『イギリス賛美歌集』の編纂に携わり、ルネッサンス期に黄金時代を迎えたイギリスの宗教音楽の豊かな遺産に存分に触れることになった。これらの体験が、その後の彼の音楽的立場を決定し、個性的な作風を築くための土台となった。
近代イギリス音楽興隆のきっかけを作ったエルガーが、音楽語法という点ではあくまでドイツ音楽の影響をはっきりと示すインタナショナルな作風であったのに対し、それに続く世代として登場したヴォーン・ウィリアムズは、民謡や古楽といったイギリスの伝統に根ざす音楽語法を積極的に採用することによって、本当の意味でのイギリスの「国民音楽」を確立したのである。
ヴォーン・ウィリアムズは歌曲や合唱から器楽、管弦楽、更にオペラなどの舞台作品や映画音楽まで、様々な分野で多くの作品を遺しているが、その中核をなすものとして最も重要だと考えられるのが、9つの交響曲である。ホイットマンの詩に基づく合唱を伴い、交響曲というよりカンタータという方がふさわしい第1番《海の交響曲》(1909)に始まり、イギリスの風土を反映してどちらかといえば抒情性の優った第2番《ロンドン交響曲》(1913)や第3番《田園交響曲》(1921)、一方それと対照的に大胆な不協和音や強烈なリズムを表に出した新古典主義的な第4番(1934)、或は映画音楽を改変して生まれた色彩感豊かな第七番《南極交響曲》(1952)など、その内容は多彩で、交響曲というジャンルの中にヴォーン・ウィリアムズという作曲家の幅の広さが集約されているとも言えよう。
上述のように、1909年の《海の交響曲》は、その名称にもかかわらず、実態としてはむしろ「交響的カンタータ」と呼ばれる方が似つかわしいものであったから、純粋なオーケストラ作品としての交響曲という意味では、1913年の《ロンドン交響曲》こそ、ヴォーン=ウィリアムズにとって最初の本格的な交響曲と呼ぶことができる。
作曲のきっかけは、年齢こそヴォーン=ウィリアムズより13も下ながら、長年の親友であり民謡採集の良き仲間であったジョージ・バターワースから「君は交響曲を作曲すべきだ」と勧められたことであったという。ヴォーン=ウィリアムズはそれに応え、当時スケッチを試みていたロンドンを題材にした交響詩の素材をより規模の大きな交響曲へと組みなおして、《ロンドン交響曲》が誕生したのである(ちなみにこの曲は事実上彼の2番目の交響曲ではあるのだが、楽譜には一切「交響曲第2番」という表記はない。あくまで《ロンドン交響曲 A London Symphony》が正式名称である)。
完成は1913年の末。翌14年の初頭、ちょうどヴォーン=ウィリアムズがイタリアに滞在している間に、ロンドンでは彼の新しい交響曲を上演しようという話が持ち上がった。新進指揮者ジェフリー・トーイによる現代音楽演奏会シリーズの一つで採り上げられることになったのである。不在の作曲者に代わって、バターワースをはじめとする友人達は写譜をするなどして準備に協力し、3月27日クイーンズ・ホールにおける初演を迎えることになった。結果は大成功、中でも第1楽章はとりわけ大きな喝采を受けた。ある批評家は次のように書いている。「傑作の誕生だ……ここにはロンドンの魂がある。衝動と強さ、目まぐるしさと悲しみがあり、理解すべき欲望、享楽への欲望さえもある。ヴォーン=ウィリアムズの思惑が何であれ、結果は高貴で忘れがたい音楽に満ちた交響曲である。この作品の人気は瞬時にして高まり、永遠に続くだろう。」
こうした高い評価にもかかわらず、ヴォーン=ウィリアムズ自身は作品に完全に満足しきっていたはいなかった。演奏に50分以上もかかるという長大さにも、批判の声が聞かれない訳ではなかった。ヴォーン=ウィリアムズは友人たちの助言を仰ぎながら、初演後も何年もの歳月をかけつつ改訂を繰り返し、完成度を高めていった。現在演奏される最終稿は、1934年に成立し、同年2月にトマス・ビーチャムの指揮で初演されたものである。その間に、この曲の成立に大きな貢献をしてくれた若き友人バターワースが、わずか31歳で世を去っていた。この曲は、「バターワースの思い出に」捧げられることになった。
この交響曲が好評を博した最も大きな要因は、当時のヴォーン=ウィリアムズならではの、民謡に根ざす親しみやすい音楽語法であろう。民謡というと、つい田舎の田園風景を思い浮かべてしまいがちだが、都会にも人々がいる限り、人々の歌があり、また人々を取り巻く様々な響きがある。《ロンドン交響曲》の基調となっているのは、作曲者がロンドンの街で出会った、そうした音の風景、サウンドスケープである。ウエストミンスターの鐘の音や街角の物売りの声、あるいは雑踏のざわめきといったものを作品の中に組み入れながら、ヴォーン=ウィリアムズは永年住み慣れたこの街に対するオマージュを捧げたのである。
こうした引用の存在は、この作品を、「描写音楽」と言わないまでも「標題音楽」として捉えようとする傾向に拍車をかける。確かに、この作品にそうした側面があることは明らかだ。だが、作曲者自身はそうした標題性に因われることを望んではいなかった。彼は次のようなことを言っている。「《ロンドン交響曲》という題名から、聴き手によっては描写音楽と思う人もいるかもしれないが、これは作曲家の意図ではない。ひょっとすると『ロンドンっ子による交響曲』といった題の方が良いのかもしれない。つまり、ロンドンの生活が(その様々な景観や音響をも含めて)作曲家に音楽的表現の試みを示唆したのだ。しかしそんなことを言葉で言ったところで、聴き手にとっては何の助けにもならないだろう。音楽はそれ自体が表現の目的であり、『絶対音楽』として聴かれることが意図されている。だから、例え第1楽章で「ウエストミンスターの鐘」が取り入れられ、緩徐楽章では「ラヴェンダー売りの呼び声」がちょっと思い起こされ、スケルツォでは極くわずかながらハーモニカや機械ピアノがほのめかされたりすることが、曲に「地方色」を添えているにしても、それらは偶然なものであって、音楽にとって本質的なものではない、と考えていただきたい。」
曲は4つの楽章からなる。
第1楽章 レント~アレグロ・リゾルート、ト長調、序奏を伴うソナタ楽章。2分の3拍子の序奏では、静けさの中から、5音音階に基づく響きがたち昇ってくる。一般に「ロンドンの夜明け前」の描写と考えられている。遠くからウエストミンスター寺院の鐘の音も響いてくる(クラリネットとハープ)。その後、一転してエネルギッシュな響きが轟きわたるアレグロの主部(2分の2拍子)は、朝を迎えて活気づくロンドンの「喧噪と慌ただしさ」。ソナタ形式の枠組みに従いつつ、多くの多彩な素材が投入されている。
第2楽章 レント、4分の4拍子、複合3部形式。作曲者自身はこれを「11月の午後のブルームズベリー・スクエア」と呼び、バターワースは「この楽章は灰色の空と入り組んだ脇道のある牧歌だ。--何よりも馴染み深いロンドンの一面だ」と評している。主部は弱音器をつけた弦の精妙な響を背景に、イングリッシュ・ホルンが哀愁をたたえた「神秘的な」歌を奏でる。ヴィオラの独奏によって導かれる中間部でクラリネットなどが奏でる楽句は、作曲者が1911にチェルシーで採譜したというラベンダー売りの売り声に基づくもの。その後に主部の短い回帰が置かれている。
第3楽章 スケルツォ(ノクターン)、アレグロ・ヴィヴァーチェ、8分の6拍子。「スケルツォの形をしたノクターン。夜ウエストミンスターの堤防に立ち、にぎやかな通りと明かりのきらめくストランド街の方から遠く響いてくるざわめきに包まれているのを想像してみれば、この楽章を聴くときの気分が得られるだろう」と作曲者は言う。形式は比較的自由ながらきわめて精妙なオーケストレーションが施されたスケルツォである。なお、ここでの「ノクターン」という語は、フィールドやショパンらが貢献したピアノ曲のジャンルとの関連というより、単に「夜を描いた音楽」というほどの意味に解しておけば良いだろう。
第4楽章 フィナーレ、アンダンテ・コン・モート、2分の3拍子。幅広く大きな流れを思わせる序奏に続いてマエストーソ・アラ・マルチア、4分の4拍子の行進曲風の主題が現れ、音楽はそれを中心に自由に展開されていく。第1楽章の喧噪の素材やウエストミンスターの鐘が回想された後、第1楽章冒頭の序奏を下敷きにしたエピローグで曲を閉じる。
1935年4月10日、ロンドンのクイーンズ・ホール。
エードリアン・ボールトの指揮するBBC交響楽団によって行われた交響曲第4番の初演は、ヴォーン=ウィリアムズの作品としてはかつてないほどの論議を楽壇にまきおこした。この曲が、3つの交響曲を含め、それまでに人々が親しんできた多くのヴォーン=ウィリアムズの作品群と、全く違う様相を呈していたからである。《タリスの主題による幻想曲》や《揚げひばり》といった代表作に見られるような深々とした抒情性、ヴォーン=ウィリアムズのトレードマークとも言うべき民謡や古楽の響きの懐かしさは、ここにはない。あるのは、暴力的とも言えるほどに強烈なダイナミズム、大胆な半音階的書法、激しいリズム表現。こうした作風に熱狂する人たちももちろん大勢おり、新聞にも「交響曲は雷のような喝采で迎えられ、作曲家は何度も舞台に呼ばれた」と報じられたのだが、一方ではとまどいをおぼえる者も少なくなく、中には「作曲者は人間性を捨て去った」という批評さえあった。
好悪の違いはあれ、多くの人々がこのヴォーン=ウィリアムズの「変身」と交響曲第4番の大胆な作風とから感じとったのは、当時の社会情勢、つまりファシズムの台頭と迫り来る戦争への予感であった。こうして、次第にこの作品がファシズムや戦争と結びつけて論じられることが多くなっていく。だがヴォーン=ウィリアムズ自身は、そうした「標題」性、政治や社会と作品との直接的関連を、むしろ否定している。一人の親友が手紙で「僕にはこの作品に美が見出せない。たぶん君が、美しくない状況を思い描いて作曲したからではないか」と問い合わせてきた手紙に彼はこう答えるのである。
「全ての音楽が美を備えていなければならないという君の意見に、僕も賛成だ。――問題は何が美か、ということだ――だから、もし君が僕のへ短調交響曲を美しくないといっても、僕は、僕はそれを美しいと思う、と答えざるを得ない。それが美しくない時代を反映しているから、美しさを意図しなかった、というのではない――美というものが、美しくないものからも生み出されうるということを僕たちは知っているからだ(リア王、レンブラントの解剖教室、ワーグナーのニーベルンゲンなど)。
実際のところ、自分が今もあの曲を気に入っているかどうか、僕にははっきり言えない。分っているのはただ、あの時はそうしたかったということだけだ。僕はあの曲を、何か外的なもの――つまりヨーロッパの状況――の具体的な描写として書いたのではない。それは単に、僕の中で起こったのだ。――どうしてかは説明できない……」
作曲者の意図に関わらず、周囲の状況が作品に影響を与えることは、ありうるだろう。だが交響曲第4番の場合、完成は1934年だがスケッチは31年からはじめられており、その時点から作曲者が数年後の社会情勢を予感していたと見るのは、かなり無理があるだろう。作者の言葉からもうかがえるように、作風の源泉は、外的状況よりも、作曲者の美意識そのものと見る方が妥当というものだろう。
この曲については、作曲者自身が書いたプログラム・ノートがある。それは各楽章の主要な主題を進行の順に追っていくという、ごく即物的なものだが、その最初に、「この交響曲全体を貫く2つの主要な主題」として、(A)ヘ-ホ-変ト-ヘ(F-E-Ges-F)および(B)ヘ-変ロ-変ホ-変ト(F-B-Es-Ges)という2つの音列が挙げられている。前者はヘ音を中心に狭い範囲で上下し(BACH音型に似ているが少し違う)、後者はオクターヴ以上の音程を駆け上がっていくという、互いに全く対照的な形をとるこの2つの音型は、普通の語法では「主題」というよりむしろ音程動機と呼ぶべきものである。これらの動機が、各楽章の主な主題の構成要素として、また展開の素材として用いられることになる。こうした手法自体は、いわゆる動機労作、主題展開の技法にほかならないが、特に限られた音程素材を徹底的に開発し尽くすというここでのヴォーン=ウィリアムズのやり方は、ブラームスをも思わせるものがある。外面上の効果もさりながら、こうした緻密な構成にこそ、この曲の真価、作曲者の意図があると言うことも、可能だろう。
なおこの曲は、作曲家アーノルド・バックスに捧げられている。 第1楽章 アレグロ、ヘ短調、4分の6拍子。3つの主題を持つソナタ形式と見られるが、展開部と再現部はかなり縮小されている。冒頭、力強く鳴り響く第1主題では、短2度下降音型の繰り返しの中から(A)の動機が導かれる。第2主題は2分の3拍子、メノ・モッソにテンポを落とし、管楽器の淡々としたリズムを伴奏に弦楽器が奏でる歌謡的な旋律。その後6拍子にもどり、(A)に基づく警句的な音型がエネルギッシュに響くのが、第3主題である。
第2楽章 アンダンテ・モデラート、ヘ短調、4分の4拍子。ソナタ形式。管楽器の(B)音型による導入に続き、低弦のピチカートを背景にヴァイオリンが、半音階的変化が多く息の長い第1主題を奏でる。その後に続く第2主題も殆ど性格は同じ。どちらもゆったりとしたカノンとして作られている。短い展開と再現の後、フルート・ソロのカデンツァとともに静かに消えていく。
第3楽章 スケルツォ。アレグロ・モデラート、ニ短調、8分の6拍子。複合3部形式。スケルツォ主部は、(B)および(A)の動機そのものの呈示に始まり、そこから派生した幾つかの素材がダイナミックに組み合わされる。トリオはクワジ・メノ・モッソの3拍子、テューバとファゴットに始まるフガートである。スケルツォが回帰し、最弱奏から長いクレシェンドを伴う経過部を経て、そのまま終楽章に突入する。
第4楽章 フィナーレ・コン・エピローゴ・フガート。アレグロ・モルト、ヘ短調、ソナタ形式。第1主題部は、冒頭の力強い下降音型と、(作者自身の表現によれば)「ウンパ、ウンパ」という行進曲風の伴奏に乗って奏されるこれも下降2度による旋律からできている。第2主題はミュージカルにでも出てきそうな、エスプリの効いた生き生きとした主題だが、扱われ方はエピソード的。第1主題を中心とした展開部と再現部に続いて標題通りフガートによる終結部(エピローグ)が置かれ、第4楽章の冒頭楽句、更には第1楽章の冒頭が再現されて、全曲を締めくくる。
1935年に発表された交響曲第4番を人々は、来たるべき戦争の「予感」と結びつけようとした。面白いことに、終戦後の1848年に発表された交響曲第6番もまた、過ぎ去った戦争の「記憶」として理解されるという運命を持つことになる。どちらも、ヴォーン=ウィリアムズ自身の本意ではなかったにもかかわらず。もちろん第4番のところでも触れたように、作曲者の意図とは関係なく周囲の状況が作品に影響を与えるということは、考えられる。だがそうだとすれば、いったい第5番の交響曲はどう理解すれば良いのだろうか。
第5番は、言うまでもなく、第4番と第6番の間に成立した。具体的には、1938年に着手され、43年に完成。初演は1943年6月24日、作曲者自身の指揮するロンドン・フィルによって行われた。まさに第二次大戦のさなかに誕生したのである。にもかかわらず、この曲にはそうした状況を連想させるような要素は微塵もない。ここで作曲家は、「あの」ヴォーン=ウィリアムズに、完全にかえっている。《タリスの主題による幻想曲》《揚げひばり》、《ロンドン交響曲》や《田園交響曲》を生み出したあの作曲家に、戻っているのである。
交響曲第5番の基調となっているのは、懐かしい、いかにもヴォーン=ウィリアムズらしい五音音階や教会旋法の旋律であり、ゆとりのある深々とした響きである。いや、その表現は以前にもまして洗練され、抒情性の純度は高められている。
「美しくない」状況の下で、なぜかくも美しい作品が書かれ得たのか。作品を政治や社会の状況と直接結びつけようとする限り、その答えは得られない。とりあえず、ヴォーン=ウィリアムズという作曲家は、そういうものから離れたところで作品を生み出すことのできる作曲家だったと、捉えておくのが良いだろう。
交響曲第5番の「純粋さ」の一つの要因として考えられるのは、この曲の素材の幾つかが、当時作曲中のオペラ《天路歴程》の素材から転用されたものだという点である。17世紀の作家バニヤンの有名な小説『天路歴程』のオペラ化は、ヴォーン=ウィリアムズにとって、若い頃にアマチュア劇団が上演した際に付随音楽を書いて以来の念願であり、少しづつ素材を書きためていた。だが、時の情勢はオペラ上演を次第に困難なものとしており、作品が完成されたとしても上演の見込みがたちそうになくなってきた。そこでヴォーン=ウィリアムズは、それらの素材をもとに交響曲を組み上げることにしたのである。『天路歴程』は、「滅亡の市」を発った一人の巡礼が、「困難の丘」や「虚栄の市」などを経て様々な試練を受けながら、ついに「天の都」に到って魂の救済を得るという、純粋に宗教的な物語であり、そうした内容は、作曲者の音楽的発想にも当然反映したに違いない。
とはいえ交響曲第5番は、素材は共通していても、オペラそのものではない。オペラ《天路歴程》の作曲は結局終戦後に再開されて1949年に完成、51年に初演された。従ってオペラと交響曲の素材の比較検討も可能になるのだが、そこから明らかになるのは、むしろ両作品の独立性である。ヴォーン=ウィリアムズ自身も、「幾つかの主題は未完のオペラ『天路歴程』から取られたが、緩徐楽章以外では交響曲はバニヤンの寓意劇と何等ドラマ上の関係はない」と言っている。
「緩徐楽章以外は関係ない」ということは、「緩徐楽章は関係がある」ということになる。実際、作曲者の自筆原稿の第3楽章冒頭には、「その場所には十字架が立っていて、少し下の麓に棺があった。そこで彼は言った、『彼はその悲しみによって私に憩(いこい)をたまわり、その死によって生命(いのち)をたまわったのだ』と」という『天路歴程』の一節が書き込まれている[引用は竹友藻風訳の岩波文庫本を参考にした]。第3楽章冒頭の主題は、確かにこの言葉を伴って、オペラの中で歌われる。
ともあれ交響曲全体としては、やはり作曲者自身の言葉通り、標題的意図とは無関係のものと考えるべきであろう。
この曲はシベリウスに、「本人の許可なく」捧げられた。
4つの楽章からなり、それぞれプレリュード、スケルツォ、ロマンツァ、パッサカリアと題されている。
第1楽章 プレリュード。モデラート、ニ長調(正確にはむしろドリア旋法)、4分の4拍子、ソナタ形式。こだまのようなホルンの響きに導かれ、5音音階の第1主題がヴァイオリンによってしっとりと姿を現す。その後ホ長調に転じて高らかに歌われる讃歌風の旋律が、第2主題。展開部はアレグロにテンポを速めてやや不安げな様相も示すが、主要主題の再現によって冒頭の牧歌的な気分が蘇る。
第2楽章 スケルツォ。プレスト・ミステリオーソ、イ短調。2つのトリオを持ち、ABACAという形をとる。主部は「神秘的」という発想記号通り、弦楽器の最弱奏で始まるユニークなもの。第1トリオでは弦楽の細かな動きを背景に管楽器が聖歌風の旋律を奏で、第2トリオは2拍子に転じて、コミカルな表情を示す。
第3楽章 ロマンツァ。 レント、イ短調、4分の3拍子、3部形式。弦楽の柔らかな響きを背景にイングリッシュホルンが奏でる主要主題が、上記の通りオペラ《天路歴程》の素材をそのまま用いたもの。中間部は、第1楽章の展開部同様ややテンポを速めて不安げになるものの、長くは続かず、主要主題が回帰する。
第4楽章 パッサカリア。 モデラート、ニ長調、4分の3拍子。パッサカリアないしシャコンヌはバロック時代に愛好されたオシティナート変奏の一種。これが初めて交響曲に用いられたのはブラームスの第4番終楽章で、ヴォーン=ウィリアムズは恐らくその例を意識したに違いない。もっとも曲そのものの性格は全く異なり、重厚なブラームスと較べて、ヴォーン=ウィリアムズのパッサカリアはより柔軟な表情を見せている。冒頭でチェロが奏する7小節の主題がもととなり、それが繰り返される間に上声部が変化していく。その上で、曲全体は更に大きなブロックごとにまとまりながら、劇的な展開を示し、最後には第1楽章冒頭の素材を回想しながら曲を閉じる。
ヴォーン・ウィリアムスの交響曲の初演といえば既に楽壇の一大事というべきものであり、人々の注目と期待が集まっていた。初演の聴衆は、冒頭から示される作品の強大なパワーに熱狂したが、反面、暗く静かな雰囲気に終始する終楽章にはとまどいと疑問を禁じ得なかった。多くの人達はこの交響曲に潜む「標題」を見つけようとした。時期からいっても、音楽的内容から見ても、恐らく「戦争」がこの作品の背景にあることは間違いないと思われた。批評家によっては、はっきりとこの曲を「戦争交響曲」と呼ぶ人もいた。だがヴォーン・ウィリアムス自身は、それを嫌がった。批評家に宛てた次のような手紙も残っている。「私はタイムズ紙で私の交響曲を『戦争交響曲』と呼んでいる批評を拝見しました。私はそういう暗示をとても嫌っています。もちろん書き手が批評の中でその曲の暗示的な効果についての自分の意見を表明することを妨げるつもりはありませんが、今回のような、まるで私が認めたタイトルであるかのような書き方の場合は話が別です。」戦争を連想するのは勝手だが、そう断定することに問題があるというのである。ちなみに後年ヴォーン・ウィリアムスは、研究家マイケル・ケネディの質問に答えて「第6交響曲のフィナーレについては、ご承知の通り意味やモットーなどというものがあるとは思いませんが、この楽章の実質には『我々は夢の中の登場人物であり、我々のささやかな生涯は眠りに包みこまれている』という言葉が最も近いかもしれません」と述べている。今度はここで引かれているシェイクスピアの『テンペスト』の中の言葉をどう捉えるかというのが問題になってきそうだが、とりあえずは、最終的にどの方向に連想を働かせるにせよ、まず純粋に音楽として体験してもらいたい、という作曲者自身の希望を肝に銘じておく必要があるだろう。実際、作曲家自身が初演のプログラムに寄せた解説は全く純音楽的(作曲理論的)な説明に終始しており、その徹底ぶりは当ディスクの欧文解説の筆者パーマーが「楽曲解説のパロディのようだ」というほどである。
オーケストラの編成はかなり大きく、通常の3管編成に加えてテナー・サックスや奏者3人を要する打楽器群が加わっている。
全体は4つの楽章からなるが、各楽章は切れ目なく移行する。
第1楽章 アレグロ、ホ短調、4分の4拍子。半音階進行を多用した激しく力強い導入に始まり、エネルギッシュで動的な第1主題、8分の12拍子に転じてスケルツォ風の第2主題、4分の6拍子の歌謡的な第3主題が順に提示され、展開される。一応ソナタ形式の規範には従っているが、作曲者によれば「再現部はこの曲が交響詩ではなく交響曲であるということを示す程度にほのめかすだけである」
第2楽章 モデラート、変ロ短調、4分の4拍子。これも半音進行を主体とするやや不気味な趣きの主題で始まるが、素材として大事なのはむしろそのリズムである。この主題とリズムが繰り返されつつ高まったところで金管のファンファーレが響き、その後弦楽器が比較的旋律らしい動きを続けるが、冒頭のリズムが少しづつ忌まわしい思い出のように再び響いてくる。
第3楽章 スケルツォ、アレグロ・ヴィヴァーチェ、ニ短調、4分の2拍子。激しくダイナミックなスケルツォ。書法としてはフーガだが、「構造というよりテクスチュアの上でフーガになっていると表現するのが一番良いだろう」。様々な個性的な楽想が継起するが、中ほどでサクソフォーンによって提示される主題は、楽器だけでなくリズムなどの面でも明らかにジャズの影響を受けている。
第4楽章 エピローグ、モデラート、4分の4拍子。前の楽章の激しい狂騒の後に置かれたこの「エピローグ」については、作曲者自身が「分析的に記述するのは難しい」と述べている。弦楽器と金管楽器は全て弱音器をつけ、物憂げな楽想を紡いでゆく。「最後のところで、弦楽器は変ホ長調に落ち着くか、ホ短調に落ち着くか、決めかねている。最終的には、結局、主調であるホ短調に決まる。」
第6交響曲におけるサクソフォーンとジャズ風のリズムの使用、《南極交響曲》(第7番)でのウインドマシーンや女声、様々な打楽器の使用、という風に、第2次大戦後のヴォーン=ウィリアムズは、交響曲というジャンルの中で常に新しい響きの探求を行ってきた。1953年から55年にかけて作曲された第8番も同様にそうした傾向を示しており、ここでは特に幾つもの鍵盤打楽器群の使用によって、精妙で新鮮な響きが生み出されている。しかもこの交響曲では、響きの点だけでなく楽曲構成の上でも、それまでのヴォーン=ウィリアムズの作品には見られなかった新しい工夫が幾つも試みられている。既に80歳を越えた老大家の、ますます衰えを知らぬ意欲と好奇心には感心させられるばかりだが、当人にとっては、老いを自覚しつつ創作を続けていくことは、決して楽なことではなかったようだ。完成も間近い1955年10月に、ヴォーン=ウィリアムズはこう書き記している。「新しい交響曲については――うまくいっていると願っている。だが、かなり神経質にもなっている。どこをとっても単純でなんの問題もないのだが、私くらいの年齢になると、2級の作品を世に出しているゆとりはないのだ――頭の中から泉のようにわき出てくるというわけには、本当のところいかないのだ。……ジョンが2月に私的なリハーサルをやらせてくれることになっているので、そこで運命が決まるだろう。」
「ジョン」というのは名指揮者ジョン・バルビローリのことで、この交響曲第8番は1956年5月に、バルビローリが本拠地マンチェスターで初演をしてくれることになっていた。ヴォーン=ウィリアムズはそれに先立つ2月にもバッハの《マタイ受難曲》を指揮するためにマンチェスターを訪れることになっており、バルビローリはその時に交響曲の試演をさせてくれる、と申し出てくれたのである。このリハーサルは、幸いうまくいった。「その晩にでもすぐ初演できるほど完璧だ」とヴォーン=ウィリアムズは思った。
5月2日に行われた初演も、もちろん成功であった。だがヴォーン=ウィリアムズには、その2週間後に控えたロンドン初演が気になっていた。指揮者もオーケストラも同じなのだから、演奏の内容に不安があったわけではない。終楽章で打楽器を多用しているために旋律が聴こえにくく、批評家たちから「旋律がない」と批判されることを心配したのである。こうして終楽章の打楽器を少し減らした最終稿が作られ、それを用いて行われたロンドン初演は、やはり大成功を収めた。
だが、批判は思わぬ方から来た。初演の会場にいたトム・ホワイトストーンという9才の少年が、バルビローリにこんな手紙を書いたのである。「ハレ管弦楽団が演奏したハイドンの交響曲をとても気に入りました。でもヴォーン=ウィリアムズの第8交響曲は好きではありません。」バルビローリはその手紙をヴォーン=ウィリアムズに転送し、受け取った作曲家は早速返事を書いた。「トム君、サー・ジョン・バルビローリが君の手紙を私に送ってくれました。――君がハイドンが好きだというのを、とてもうれしく思います。ハイドンはとても偉い人で、美しい旋律をたくさん書きました。私もいつか、君が好きになってくれるような曲を書くように、頑張らなくてはいけませんね。」
バルビローリはその後もこの交響曲をあちこちで演奏し、作品の普及に尽力した。出版にあたってこの交響曲がバルビローリに捧げられたのは、当然のことであった。
一聴した印象とは異なり、この交響曲の基本的な楽器編成は2管編成の比較的小規模なもの、作曲者自身の言葉を借りれば「シューベルト・オーケストラとして知られるもの」である。だがそこにハープとたくさんの打楽器、とりわけ「作曲者が知っている限りの」鍵盤打楽器が加わることによって、実に多彩な音色効果が生み出されている。
4つの楽章からなり、各楽章には曲の概要を示す題が付けられている。
第1楽章 ファンタジア(主題のない変奏曲) 作曲者はこれを「主題を探し求める7つの変奏」とも呼んでいるが、何らかの主題が隠されているといった意味ではなく、一般の変奏曲のような明確な主題旋律を持たない、という意味である。「変奏」のもととなっているのは、冒頭の神秘的な第1部分(モデラート、8分の6拍子)で提示される幾つかの短い断片的な動機であり、中でも最初にトランペットが奏でるニトホイ(DGEA)の音型が最も重要である(従って、ここでの「変奏」とは「動機労作」の謂にほかならない)。この動機が様々な変容と展開を受けながら、スケルツォ風の活発な第2部分(プレスト)、コラール風の旋律が継起する第3部分(アンダンテ・ソステヌート、4分の4拍子)、牧歌的な木管の歌に始まりながら大きな高まりを見せる第4部分(アレグレット、8分の6拍子)、ゆったりとした第5部分(アンダンテ・ノン・トロッポ、4分の4拍子)、エネルギッシュな第6部分(アレグロ・ヴィヴァーチェ、8分の6拍子)、そして第3部分の旋律を回帰させつつ全曲のクライマックスを形成する第7部分へと、曲が進んでいく。この構成に関して作曲者は、第1~3部分を提示部、第4・5部分を展開部、第6・7部分を再現部という風にソナタ形式の枠組みを当てはめて捉えることも不可能ではないと示唆している。
第2楽章 スケルツォ・アラ・マルチア(管楽器のために) 標題通り、管楽器だけで奏される「行進曲風スケルツォ」。諧謔味に富んで洒脱なアレグロ・アラ・マルチア、4分の2拍子の主部にアンダンテ、8分の6拍子の比較的短いトリオが続く。その後のスケルツォ主部の再現はほとんど申し訳程度にまで切詰められているが、こうした形式の着想を作曲者はブラームスのクラリネット5重奏から得たという。
第3楽章 カヴァティーナ(弦楽器のために) 第2楽章とは対照的に弦楽器だけで演奏される、レント・エスプレッシーヴォの緩徐楽章。中間部の素材は民謡風の音調を持ち、そこにカデンツァ風のヴァイオリン独奏があしらわれる様は、初期の代表作《揚げひばり》を彷彿とさせる。
第4楽章 トッカータ モデラート・マエストーソ、4分の3拍子。打楽器の響きをきっかけとする短い「不吉な」序奏を受けて、トランペットが民謡風の5音音階に基づく主要主題を奏する。全体は、この主題が別の素材(エピソード)を挟みながら繰り返されるという、ロンドの形をとっている。最初のエピソードでは弦楽器が副次的な主題旋律を奏で、第2エピソードはシロフォン、第3エピソードはヴィブラフォンとチェレスタの響きが特徴的。第4エピソードでは鍵盤打楽器のグリッサンドを伴って副次主題が朗々と奏でられ、最後にロンド主題が回帰して曲を閉じる。
『イギリス賛美歌集』の編纂を行っていたとき、ヴォーン・ウィリアムスはその第92曲に、「死の床から起き上がるとき」というアディソンの詩を伴ったトーマス・タリスの旋律を発見した。タリスは1505年頃に生まれ、1585年に没したルネサンスの作曲家で、ヘンリー8世の時代からエリザベス女王の時代にかけて、英国王室教会の音楽家として活躍した人物である。問題の賛美歌は、タリスが1567年にマシュー・パーカー大主教の編纂する詩編歌集のために寄せた9曲のうちの第3曲を原曲とするものであった。フリギア旋法による印象深い旋律に魅かれたヴォーン・ウィリアムスは、その後1910年にこの旋律を主題に用い、恐らくはルネサンスの多重合唱のスタイルを想定したと思われるユニークな構成の弦楽合奏曲を書いた。それが《トーマス・タリスの主題による幻想曲》である。初演は1910年9月6日、グロースター大聖堂で、伝統ある「三地区合唱フェスティヴァル」の一環として行われた。作曲者自身の指揮、ロンドン交響楽団の演奏であった。
編成は「二つの弦楽合奏と弦楽四重奏」という個性的なもので、通常の第1・第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスという弦楽合奏(第1オーケストラ)の他に、第1ヴァイオリンからチェロまで各2名とコントラバス1名からなる第2オーケストラ、そして弦楽四重奏が必要である。総譜の指定によれば第2オーケストラには第1オーケストラの各パートの第3プルト(3つめの譜面台を共有する2人)の奏者を連れて来ることになっており(コントラバスの場合は第2プルトの第1奏者)、可能な限り第1オーケストラから離れて配置される。もしその配置が実現しにくい場合は、第1オーケストラの本来の場所に座って演奏せよ、とのことである。4重奏の方は、第1オーケストラ各パートの首席奏者によって演奏される。これらの楽器群が時に呼応しあい、時にエコーや遠近法のような効果をもたらしながら絡みあって、深ぶかとした響きの落ち着いた音楽を奏でていく。
曲はラルゴ・ソステヌート、4分の4拍子、ト短調。全合奏による澄み切った響きの短い序奏に続いて、低音のピチカートで主題が暗示された後、中音域の柔らかな音色で主題が歌われる。この主題はもう一度音域を高めて歌われ、その後は4重奏のソリストたちによるモノローグ風のエピソードを挿さみながら、幻想曲らしく比較的自由な展開となる。
第6交響曲については標題的な解釈を嫌がったヴォーン・ウィリアムスだが、既に見たように交響曲のジャンルでも標題を伴った作品を幾つも遺して標題音楽そのものに否定的であった訳ではない。「ヴァイオリンとオーケストラのためのロマンス」いう副題を持つ「揚げひばり」などは、典型的な標題音楽として分類されるべき作品である。この曲の楽譜には、19世紀イギリスの詩人ジョージ・メレディスの次の様な詩が掲げられている。
彼(ひばり)は舞い上がり、回り始め
銀色の声の鎖を落とす
切れ目なく沢山の声の輪がつながっている
さえずり、笛の音、なめらかな声、震えるような声
空を一杯に満たすまで歌い続けるのは
声がしみ込んでいく大地への愛のため
そしてはるかに羽ばたき上れば
我らが谷は彼の金色の杯となり
彼はそこからあふれ出る酒となって
我らも彼と共に昇っていく
空気の輪に乗って光りの中に消えた後には、
まぼろしが歌っている
この詩に刺激されたヴォーン・ウィリアムスがその音楽化に着手したのは1914年であったが、その8月に第1次世界大戦が勃発、彼は42歳にして召集を受け、曲は草稿のままにおかれる。終戦の後、女性ヴァイオリン奏者マリー・ホールの協力を得て改訂し、1920年12月15日、エーヴォンマス&シアハンプトン合唱協会の演奏会で、まずピアノ伴奏の形で初演された。オーケストラ稿による初演は1921年6月14日にロンドンで行われた。イギリス音楽協会の演奏会で、独奏はマリー・ホール、エイドリアン・ボールト指揮ブリティッシュ交響楽団の演奏であった。
曲はABCBAというアーチ型の構成をとる。最初(A)は、ひばりが舞い上がり飛ぶさまを描いたようなアンダンテ・ソステヌート(ホ短調、8分の6拍子)。独奏ヴァイオリンがひばりとなって、カデンツァをさえずりながら空へ昇っていく。中間部でアレグレット(B)ないしアレグロ(C)にややテンポを速め、民謡風の旋律が響いて来るのは、上空から見下ろす田園風景であろうか。その後は再びひばりのアンダンテに戻って曲が閉じられる。