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プロコフィエフの交響曲(概観とディスク紹介)
symphonies of Prokofiev - overview & disc guide -

初出:『レコード芸術』1995年4月
プロコフィエフの交響曲全曲の紹介とディスクガイド。
小澤征爾の全曲録音にちなんだ企画で、ディスクガイドの部分は古いかもしれませんが
ソ連崩壊からさほど遠くない時期の空気は伺えます。
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プロコフィエフの再評価

小澤征爾とベルリン・フィルによるプロコフィエフの交響曲全曲録音が完結する。1991年のプロコフィエフ生誕100年をにらんで企画されたもので、録音は89年4月から92年11月まで、3年半にわたって行われた。

 この交響曲全集の存在意義は、決して小さくない。プロコフィエフの交響曲の受容のされ方に従来少なからぬ偏りがあったのを正し、プロコフィエフの再評価を促す契機を、この全集が持っているからである。
 受容の偏りというのは、例えば《古典交響曲》(第1番)や第5番が相当にポピュラーであるのに対して、第2、第3、第4といったところは殆ど聴かれる機会がない、ということである。
 その根本的な原因は、1番や5番が解りやすく、2、3、4番は「難解」だ、という点にある。だが、この根本原因がダイレクトに受容の偏りをもたらしたと単純にはいえないところに、問題がある。2・3・4番の交響曲は、プロコフィエフが革命を避けてアメリカやフランスで活動していた頃の、モダニズムの傾向が著しいとされる作品たちである。これらは、社会主義リアリズムの理念とは真っ向から対立するため、プロコフィエフがソ連に帰国してからも、その価値を否定され続けてきた。いわば公式に受容の可能性を妨げられてきたのである。
 こうした、ソヴィエトのイデオロギーが招いた弊害に対する見直しは、ソ連の崩壊後様々な分野で行われてきている。音楽に関しても、数年前からルーリエやロスラヴェッツといった、いわゆるロシア・アヴァンギャルドの作曲家たちの再評価が進んでいるが、モダニスト・プロコフィエフの名誉回復もまた、同じコンテクストの上で行なわれなければならない。
 いや、プロコフィエフ再評価への動きは、実はもう始まっている。数年来、プロコフィエフの交響曲の録音は確実に増えている。91年の「生誕100年」がその大きな要因であったことは確かであり、それを狙って人気の高い曲だけを録音するような例も多いのだが、それだけではなく、もっと腰を落ち着けてあまり演奏頻度の高くない曲に積極的に取り組んでいる指揮者も複数いるのだ。ヤルヴィ、ロストロポーヴィチ、小澤は全集を完成させたし、アシュケナージとプレヴィンは6・7番、ムーティは3番をそれぞれ1番と5番以外に録音している。シャイーなどは人気曲には目もくれず第3番に情熱を燃やしている。「生誕100年」は、既に芽生えつつあったプロコフィエフ再評価への流れを更に大きく確固としたものへと変化させるための、引き金のであったのだ。
 小澤/BPOの全集録音は、こうした大きな流れの中で生まれてきたものであり、またそれ自身が今度は牽引的な役割を担って、この流れを前に進めていく使命を帯びている。世界でも有数の音楽的実力を持つ彼らが、ソヴィエト=ロシアの伝統とは無縁のインターナショナルな立場から新鮮なまなざしで取り組んだプロコフィエフは、新しいプロコフィエフ像の確立にきっと大きく貢献するはずである。

交響曲第1番(古典交響曲)

 さて、個々の交響曲を順に見ながら、小澤およびその他の演奏を聴いていくことにしよう。
 第1番に当たる《古典交響曲》作品25は、ハイドンの作曲技法を現代に生かそうと試みたものである。「もしハイドンが、われわれの時代まで生きていたなら、彼自身のスタイルを保ちながら、同時に新しいものを受け入れただろう。」。作曲は1916年から17年。1917年といえばロシアに革命の嵐が吹き荒れた年だが、プロコフィエフは世間から離れた村で1夏を読書と作曲に明け暮れ、この曲を完成させた。
 ハイドンのスタイルといっても、無論そのままではない。伝統的な4楽章構成と言いつつ、メヌエットの代わりにフランス・バロック風のガヴォットが入っている。旋律は比較的明快とはいえ、増・減音程の跳躍を含む鋭角的な旋律線や唐突な転調といったプロコフィエフの特徴がそのまま残っている。こうしたモダンな語法と古典的な外見との不一致が、自ずとこの作品のパロディーとしての性格を浮き彫りにし、聴き手に機知やユーモアの印象をもたらすことになる。
 この曲の録音は実に多く、今回は比較的新しい録音を中心に約20点を較べてみたが、小澤/BPOの演奏は、その中でも相当異色の演奏といってよい。テンポがかなり遅いのである。第1楽章のテンポ指示はアレグロ、2分音符=100。それを小澤は85くらいで振る。他の指揮者は遅めでもせいぜい95だから、小澤の遅さは印象的だ。結果としては、一般にこの曲から受け取られる軽妙洒脱といった雰囲気ではなく、ゆったりおっとりとして典雅な風情が醸し出される。第2楽章以下も同じ調子で、いずれも今回見た演奏の中では最も遅い部類に属する。こうした小澤の指揮ぶりは、正直なところ切れ味鋭いとは決して言えない今のBPOの資質にうまく見合っていて、それなりに成功してはいる。だがこの曲の場合、個人的にはもっとスパイスの効いた、小粒でぴりっとくるような演奏の方がふさわしく思う。その方向で一番満足できるのは、ヨエル・レヴィの演奏。アトランタ交響楽団のアンサンブルはすっきりしてまとまりが良く、きびきびとしてリズムの粒立ちが良い。緩徐楽章の歌い方にも微妙なニュアンスが感じられるなど、決してルーティンワークに終わらせない真摯な態度が感じられるのが、何よりも好ましい。他にも優れた演奏は色々あるが、オルフェウスCOの明晰さ、デュトワの上品さなどは特に個性として心に残る。

海外遍歴

 革命に何の意義も希望も感じられなかったプロコフィエフは、1918年、「新鮮な海の空気を吸うために」アメリカに渡ることを決意する。シベリアと日本、大平洋を経由しての4ケ月の旅。こうして、16年に及ぶプロコフィエフの海外遍歴時代が始まった。アメリカ、ドイツ、フランスと生活の拠点を変えながら、プロコフィエフは刺激的な1920年代文化の空気を1杯に吸い、持ち前の先進的傾向をますます発揮させていく。 そうした中で、第2番から第4番までの交響曲が作られた。

交響曲第2番

 交響曲第2番作品40は1924年から25年にかけて作曲され、同年6月にクーセヴィツキーによってパリで初演された。だが、作曲者自ら「自分の作品の中で最も半音階的」であり「長くて複雑」と言うこの作品は、聴衆の理解を得ることができなかった。
 耳をつんざく不協和音の強奏が連続するソナタ・アレグロと20分以上にも及ぶ長大な変奏曲との2楽章構成には、確かに、理解を超えたものがあったろう。作曲者はこう言う。「耳がすぐ受け入れる音楽が必ずしもよい音楽とはかぎらないことを、聴衆が考慮したなら……そしてもう少し真剣な注意を、わたしの『理解しにくい』作品に払ってくれたなら、われわれはお互いに、急速に理解し合えたであろう。」この曲は、ソ連のジャーナリズムからも「極めて形式主義的であり、プロコフィエフの外国時代の最も良くない傾向が現れている 」と見做されて、「注意を払う」可能性さえ否定され続けることになる。
 7つの交響曲のうち、受容と再評価が一番遅れていると思われるのがこの第2番で、ディスクは全集の一環として録音されたものしかない。その中で、小澤の演奏は格段に優れている。冒頭からの強大なエネルギーの持続を「レコード芸術」として成功させるためには、超人的とも言えるオーケストラの底力と、それを引っ張っていける指揮者の技量、それに優れた録音技術の3つが揃っていなければならない。その条件をクリアできているのは、今のところ小澤盤だけといってよい。例えばヤルヴィ盤は、迫力という点では優れていても、弦が弱いために金管ばかりが目立ち、バランスを欠いてしまっている。ロストロポーヴィチ盤も、クライマックスになるとオーケストラの体力不足が露呈してしまう。やはりベルリン・フィルはとてつもないオーケストラだと、つくづく感じさせられる。

交響曲第3番

 プロコフィエフは1927年、オペラ《炎の天使》を完成させた後、その素材を用いて4つの楽章を持つ本格的な交響曲を作った。それが交響曲第3番作品44である。主題素材はオペラから取られているが、しかし作曲者はこの交響曲を標題音楽的にオペラの内容と関連づけることを嫌った。交響曲の中ではオペラの筋と無関係な、純粋な音素材としてそれらの主題が処理されているからである。

 この交響曲は1929年3月にブリュッセルで作曲者自身によって初演され、2ケ月後にはモントゥー指揮でパリ初演が行なわれた。作曲者は、これを「わたしの最上の作品の一つ」とみなし、「わたしはこの交響曲で、より深い音楽的表現に達しえた」と考えていた。
 確かに、第2番と較べても主題法ははるかに豊かであり、オーケストレーションははるかに繊細かつ精緻であって、一段と高度な作曲技法上の工夫が凝らされていることがわかる。スクリャービンを思わせる響きやオリエンタリズムを感じさせる半音階的旋律など、神秘主義的な趣きも備えた、この時期のプロコフィエフならではの作品といえる。
 小澤の演奏は力動的な場面での推進力が強く、ややもすれば曖昧模糊となりがちな部分の多いこの曲の響きにくっきりとした輪郭をもたらして、明快で見通しの良い演奏になっている。こうした長所は反面、緩徐楽章や弱奏部分での神秘主義的な色合いをやや薄めてしまうことになるが、逆にその点で長けているのがシャイー盤。艶のある美しいコンセルトヘボウの響きによって、うすぎぬを重ね合わせたようなオーケストレーションの微妙な肌触りが見事に再現されている。何とこれが2度目の録音となるシャイーの指揮ぶりも、さすがに曲を手の内に入れた安定感を見せている。加えてシャイー盤で特筆すべきは、そのカップリングの巧さ。モソロフの《鉄工場》とこの交響曲第3番、それぞれの冒頭を並べて聴くだけで両者の語法の共通性が面白いようにわかり、20年代アヴァンギャルドへの理解が深まるという仕掛けになっている。

交響曲第4番

 1929年、プロコフィエフはボストン交響楽団の指揮者クーセヴィツキーから、楽団の創立50周年を記念する交響曲を委嘱された。ちょうどバレエ《放蕩息子》の作曲を終えたばかりのプロコフィエフは、第3交響曲の時と同じようにこのバレエのために用意した素材を利用して、交響曲第4番作品47を書き上げた。だが1930年11月にクーセヴィツキーが行ったボストン初演も、その後モントゥーによって行なわれたパリ初演も、失敗に終わった。

 第4番の音楽語法は、第2番や第3番と違ってずいぶん平明なものである。モダニズムの名残と言うべき強烈な不協和音も出てはくるが、何よりも旋律が明快で、全体をロマンティックなリリシズムが貫いている。1930年代半ばの《ロミオとジュリエット》や《ピーターと狼》といった作品と同じ方向を、この曲は既に向きかけているのである。にもかかわらず聴衆に受け入れられなかったというのは、実に不可解な話である。もちろん誰よりも不可解で、かつ残念な気持ちを噛みしめていたのは、作曲者本人に違いない。「[第4番の初演は]成功ではなかったが、その柔らかな調子、それに含まれている材料の豊かさのために、今でもこの曲が好きである。」

 改訂

 ソヴィエトに帰国後、1937年11月にプロコフィエフは自ら指揮してこの曲をモスクワの聴衆に紹介したが、積極的な反応は得られなかった。この交響曲は結局出版もされぬまま、しまい込まれることになる。
 しかしプロコフィエフのこの曲に対する愛着は消えなかった。17年後、第5番と第6番の成功を通じて交響曲の領域に自信を深めていたプロコフィエフは、再び第4番を世に出すべく、大幅な改訂に着手する。「この交響曲は主題素材が良いので、第5と第6を書いたあとの僕には、全体をもっと強力にできるような気がする。」
 主要な主題素材は残したまま、全体の構成を根底から組み直す。大幅に規模を拡大すると同時に、見通しがよく聴衆にもアピールしやすいようにと配慮される。特に大きく変化したのは両端楽章で、第1楽章はもとの2倍近い大きさになり、終楽章も劇的かつ英雄的なフィナーレとしての性格を強められている。
 こうして生まれ変わった交響曲第4番の新稿には、改めて112番という新しい作品番号が付された。しかしこの楽譜も、結局作曲者の生前には演奏も出版もされず、没後4年を経た1957年にロジェストヴェンスキーの指揮で演奏される時まで、日の目を見ることがなかったのである。
 プロコフィエフが改訂稿を世に出さなかった理由は不明だが、恐らくは改訂の翌年、1848年初頭のいわゆるジダーノフ批判が原因ではないかと想像される。共産党中央委員会のジダーノフが、ソヴィエト音楽家会議の席上でプロコフィエフやショスタコーヴィチなど当時のソ連を代表する作曲家たち7人を「形式主義的傾向の指導人物」として批判したのである。青天の霹靂というべきこの苦境の中で、ただでさえ批判されがちな海外亡命時代の、それもあまり高い評価を受けられなかった作品の改訂稿を持ち出すなど、とてもできなかったのに違いない。
 こうした事情のため、この第4番は第2番と並んで受容が遅れており、ディスクも全曲録音のものだけである。中ではヤルヴィとロストロポーヴィチが初稿と改訂稿の両方を録音しているのが注目されるが、特に後者は両稿が1枚のディスクに収められていて、資料的価値が高い。演奏も、初稿はゆったりとしたロマンティックな表情、改訂稿はやや派手なまでにドラマティックな表現と、それぞれの稿の性格にふさわしい音楽作りで、説得力が強い。小澤は改訂稿だけの録音だが、全体としてまとまりのよい好演を聴かせている。第3楽章モデラート・クワジ・アレグレットのテンポ設定が第1番の時と同様かなり遅めで、楽譜の指定では4分音符=108のところを77くらいで振っているのが個性的だが、この場合はそれが確かに功を奏しており、BPOからニュアンスに富んだ演奏を引き出している。

帰国

 さて、第4番初稿(作品47)の思わぬ不評は、プロコフィエフから交響曲に対する自信を喪失させてしまうことになった。彼が次の交響曲である第5番を作曲するのは1944年。実に14年もの空白は、第4番の失敗がいかに大きなショックであったかを物語る。この空白期間に、プロコフィエフにとっては大きな環境の変化があった。ソヴィエトへの帰国である。1918年の出国以来、ソ連からは幾度か帰国の要請があり、27年と29年には祖国への演奏旅行を行なって成功を収めていた。「新鮮な空気が吸える」外国で受ける批判的な沈黙と祖国で受ける大歓迎との間のギャップに思うところがあったのか、プロコフィエフは32年頃から頻繁にソヴィエトと行き来し、1936年にはついに祖国に完全に復帰したのである。
 1936年といえば、ショスタコーヴィチが『プラウダ』紙上で「音楽の代わりに荒唐無稽」という批判を浴びた年である。当局からの音楽に対する規制が強化されつつあった、まさにその時期に帰国するというのは、いささか大胆というか浅慮というか。ともあれ、この祖国復帰後、プロコフィエフは最後の3つの交響曲を生み出すことになる。

交響曲第5番

 交響曲第5番作品100は、第2次大戦もたけなわの1944年に作曲され、翌年1月に作曲者自身の指揮でモスクワで初演された。長い空白の末に再び交響曲に向かうことになった理由については、何もわかっていない。「わたしの第5交響曲は、自由で幸福な人間への、その力強い才能と、その純粋で、けだかい精神への賛歌として作られた」という作曲者の言葉が伝えられているが、これは作曲の動機というよりもむしろ、当局からの無用の批判を避けるために、この作品が社会主義リアリズムの理念に則っているということを型通りに宣言したものだろう。ただ、真意はどうあれ、明快で親しみやすい、しかし個性的な旋律を主題に持ち、伝統を踏まえた見通しの良い構成を持つこの交響曲が、社会主義リアリズムの理念に適うものであることは確かであるし、だからこそ「プロコフィエフの最高傑作」傑作としてソヴィエト国内で高く評価され、それを前提として国外にも普及していくことができたのである。
 現役の国内盤は18種にも及ぶが、その大半は聴いていて殆ど不満の残らない、充分満足できるものであった。これはとりもなおさず、曲が本当に良くできているということの証左だろう。小澤はここでも複雑なテクスチュアを見事にさばき、輪郭のはっきりした明快な演奏をぐいぐいと押し進めている。それ以外の、あまたある優れた演奏の中から強いて印象に残るものを挙げれば、切れの良い響きでスケールが大きくダイナミックな演奏を展開するレヴァイン、ソノリティの美しさが光るデュトワ、ムラヴィンスキーもかくやと思わせるほどの緊張感で迫力に満ちた演奏を聴かせるヤンソンスといった所だろうか。

交響曲第6番

 第5番で輝かしく交響曲の領域に復帰したプロコフィエフは、早速次の交響曲に取りかかる。2年をかけて完成した交響曲第6番作品111は、1947年10月11日、巨匠ムラヴィンスキーの指揮によってレニングラードで初演された。こんどの曲は急緩急の3楽章構成をとっていた。「第1楽章は不安な性格で、叙情的な部分もエネルギッシュな部分もある。第2楽章ラルゴはより歓ばしくて歌謡的、終楽章は急速な長調で、第1楽章の回想がなければ僕の第5番の性格に近い。」第5番がやや楽天的であるのと較べ、第6番、特にはじめの2つの楽章の基調には深刻さと真摯さがあり、その構成は叙事的かつ劇的。こうした個性の背景として、しばしば戦争の記憶ということが指摘されてきた。この曲に関してプロコフィエフが伝記作者ネスチエフに「今私たちは勝利を歓んでいるが、誰しもまだ癒えない傷を持っているのだ」と伝えた、というのである。
 本当に戦争が関係しているかどうかはともかく、聴き手を深い衝撃で捉えて放さない第6番は、第5番に優るとも劣らぬ傑作と思われる。ソ連でも、初演後しばらくはそうした高い評価が1般的であった。だがそれが、ある日突然冷淡なものに変わる。きっかけは例のジダーノフ批判である。ジダーノフは発言の中で具体的な曲名を挙げてはいないが、交響曲で対象となるのは5番と6番だけ。5番は既に傑作としてのお墨付をゆるぎないものとしているから、批判されたのは新しい第6番ということになる。こうして、昨日までこの曲を褒めていた批評家も、次の日からは沈黙を守る。第6番の受容の可能性は、こうして閉ざされたのである。
 この曲の演奏で気になるのは第1楽章のテンポ。表示はアレグロ・モデラートなのだが、ただの「モデラート」としか思えない演奏が多い。曲の持つ不安な情調に遅めのテンポが似つかわしいのは解るが、その余り「アレグロ」の前進感を失ってしまうのはまずい。この点に関しては、コシュラーとロジェストヴェンスキーという古目の録音を除くと、満足できるのは小澤の演奏だけだ。BPOの重量感のある響きをダイナミックに活かし、迫力に満ちた叙事的なドラマを展開する、熱演である。

交響曲第7番

 ジダーノフ批判のころからプロコフィエフの体調は次第に悪化し、病床につくことが多くなってくる。そんな状態の中で、1951年の末、彼は少年向け放送局のために、解りやすい交響曲を作曲することを思いついた。翌年春にピアノ・スコアが完成、友人の助けを借りながらオーケストレーションを施して、7月に全曲が出来上がった。結果は「子供用の交響曲」というより、むしろ「若き日をテーマにした交響曲」とでも呼ぶべきものではあったが、美しく印象的な旋律に彩られ、しっとりとした抒情が全体を包む佳品となった。初演はその年の10月、モスクワで、サモスードの指揮する放送交響楽団によって行なわれた。プロコフィエフは病をおして演奏会に臨み、人々から大きな拍手を贈られたが、これは彼が公衆の前に姿を見せた最後の機会となった。彼は5ヶ月後の1953年3月5日、奇しくもスターリンと同じ日に世を去ることになる。
 この曲の終結部分を、作曲者は静かに消えていく形で作曲していた。しかし初演者サモスードはそれでは効果が薄いと考え、ロンド主題をもう1度再現してフォルテで終わった方が良いのではないかと提案した。プロコフィエフはそれに従って書き直し、初演もその形で行なわれたが、「これでも良いが、僕はやはり最初の稿の方が良いと思う」とも語ったという。現行のスコアには両方のエンディングが収められ、指揮者の判断で選択できるようになっている。今回参考にしたディスクでは、ピアノで終わる初稿が小澤、アシュケナージ、ロストロポーヴィチ、コシュラー、ロジェストヴェンスキーの5人、フォルテで終わる改訂稿はプレヴィン、ヤルヴィ、ヴェラー、マルティノンの4人であった。
 ポピュラーになりうる要素を多々備えているにもかかわらず録音の数が少ないが、しかし第5番と同様、どれもが満足できる内容を持っている。個人的には第1楽章のテンポをやや速めにとるヤルヴィの解釈が性に合うのだが、残念ながら弦楽の音色に魅力が乏しい。小澤は全体に落ち着きのあるテンポをとり、安定感のある演奏を聴かせている。アシュケナージのしなやかな指揮ぶりも魅力的だが、切々とした哀感をにじませたロストロポーヴィチの演奏に触れると、作曲当時のプロコフィエフの心情には案外これが1番近いのかな、と思えてきたりする。

吉成 順

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