手紙の相手は、メンデルスゾーンより一つ年上の少年ホルン奏者、ルードルフ・グーゲル。ちょうど一年前、彼がホルン奏者の父親と一緒に演奏旅行でベルリンを訪れた際に、フェリックスは彼らのピアノ伴奏を引き受けていた。以来、彼らがベルリンを離れた後も、少年たちは文通を続けていたのである。たわいもない手紙だが、少年メンデルスゾーンの教育や生活ぶり、また、その年からツェルターのもとで作曲修行を始めていたメンデルスゾーンが、レッスンの課題とは別に自主的にとりくんだ、おそらくは最初の作曲の試みが連弾用ソナタであったらしいことなど、いろいろな情報が読み取れる手紙である。
その翌月、12月11日に、フェリックスは小さな歌曲を一つ作っている。タイトルは『我がよき父の誕生日に寄せる歌』。43歳になる父アブラハムの誕生日を祝うべく姉ファニーと共同で歌詞をつくり、それに二人が別々の曲をつけて、アブラハムへのプレゼントとしたのだった。
この詩にともなうフェリックスの曲は、ト長調4分の2拍子、旋律もピアノ伴奏もシンプルながら、しなやかな旋律線を彩る細やかな響きのあやが印象的な佳曲である。
ところで今紹介した手紙も歌曲も、存在自体はごく専門的な研究論文などを通じて以前から知られていたのだが、その具体的な内容を確認することは大方の人にとって難しいことだった。それが可能になったのは、実にここ数か月のことである。生誕200年の今年に向けて、世界各地にちらばっている膨大なメンデルスゾーンの書簡類をすべて網羅する書簡全集の出版がスタートした。また、従来知られていなかった作品を含む新しい歌曲集など、きちんとした資料調査に基づく原典版楽譜がここにきて次々に出版されている。メンデルスゾーンに関する資料整備は、今ようやく始まったばかりなのだ。
これまで情報がなかったわけではない。数から見ればむしろ豊富にあった方だといってもよい。家族や友人たちの手になる書簡集や回想録はたくさん出版されていたし、「楽譜全集」も19世紀にすでに存在していた。だが残念ながら、それらは多くの歪みと不充分さにまみれていたのである。
作品についていえば、まずメンデルスゾーンその人が極めて厳しい審美眼の持ち主で、いったん完成され初演された作品であっても本当に納得しない限り出版しようとしなかった、という事実がある。一般に作品が出版されると順に作品番号(op)がつく。メンデルスゾーンの場合そうしたものは121あるが、実はそのうちメンデルスゾーン自身が認めたものは72番まででしかない。作品73から121は、作曲者の死後遺族や友人によって出版されたものなのである(ちなみにそれゆえ、73以降の作品は番号と作曲年代に関連性がない)。
ちなみに、最近の研究文献に付された作品表などで曲数を数えてみると、ざっと370ほどになる(これは曲集を1として数えた数なので、たとえば《無言歌集》作品67(全6曲)や《6つの歌曲》作品34をそれぞれ6と数えれば総作品数はもっともっと多いことになる)。250以上の作品が、遺族や友人によっても出版されないまま残されていたわけである。10代の頃に作曲された弦楽のためのシンフォニアや協奏曲、ジングシュピールなど、20世紀後半以降に甦った(甦らされた)作品も多いが、それでもまだ100曲を超す作品が知られぬまま図書館などに眠っている。最初に言及した歌曲のように、今やそうした作品も少しづつ世に出るようになってきた。
書簡や日記などの伝記資料については、メンデルスゾーンの遺族・親族がたくさんおり、プライヴェートな記述を含むそうした資料の公開を妨げてきた。さしさわりのない、いわば美化された部分だけが世に知られ、それが私たちのメンデルスゾーン像を作ってきたのである。そうした資料の多くが公共図書館などに移され、科学的研究が可能になったのは、ようやく1970年代に入ってからのことである。
ユダヤ人であったためナチス時代に全く研究が途絶えてしまったこと、ベルリンの図書館に保管されていた一次資料の多くが第二次大戦ののち行方不明となっていたこと、資料や研究の拠点が東西ドイツに分断されてしまったことなど、政治的要因もまた、メンデルスゾーン研究をたち遅らせた。旧ベルリン図書館の資料は1980年代になってようやく所在が判明し、少しづつアクセス可能になった。東西ドイツの壁がなくなって3年後の1992年には、旧東西の学者や研究組織が一体となった新しい楽譜全集の出版もスタートした。