「私は考えた。今に時代の最高の表現を理想的に述べる使命をもった人が、忽然として、出現するだろう、また出現しなくてはならないはずだと。すると、果たして、彼はきた。その名は、ヨハネス・ブラームス。……今後、彼の魔法がますます深く徹底して、合唱やオーケストラの中にある量の力を駆使するようになった暁には、精神の世界の神秘の、なお一層ふしぎな光景をみせてもらえるようになるだろう。……私たちは彼を逞しい闘争者として歓迎する。」(シューマン『新しき道』(1))
一八五三年、シューマンが若干二〇才のブラームスを世に送り出した時から、人々はブラームスがいずれ「量の力を駆使した」本格的な管弦楽作品を作ることを期待した。彼は、当時「未来の芸術」を標榜して楽壇に圧倒的な影響力を及ぼしつつあったワーグナーやリストらの「進歩派」に反発を覚える人達の希望の星、「逞しい闘争者」であったから、当然その作品は詩的想念に依存しない「純粋で絶対な」器楽、即ち交響曲であり、しかもそれは、彼らにとって最も偉大な伝統であるベートーヴェンが九つの作品で達成した業績を正統的に受け継ぎ発展させるものでなければならなかった。
自分の美意識だけでなく、こうした世間の過重な期待をも満足させねばならぬという負担はブラームスの交響曲創作をことのほか困難なものとしたが、しかし周知のごとく彼は多年の努力の末にそれを克服する。一八七六年、一五年以上もの歳月を費やした交響曲第一番が初演されると、保守派の論客ハンスリックは「交響曲文献の中でもっともユニークでもっとも堂々たる作品」「国民が誇りうる財産」と絶賛し、指揮者ビューローはベートーヴェンの九つに続く「第一〇交響曲」とさえ呼んだ。これで突破口を開いたブラームスは、翌七七年に第二番、その六年後の八三年に第三番をそれぞれひと夏で書き上げ、更にその翌年からふた夏を費やして八五年に第四番を発表。いずれも個性的で充実したこれらの作品によって、ブラームスは交響曲の歴史に確固たる地位を築いたのである。
第一番の発表に至るまでの長い歳月は、作品に世の期待に応え得るだけの高い完成度をもたらす、ブラームス自身の交響曲作法を確立するための期間と見てよいだろう。では「完成度の高さ」を保証する要因は何か。ハンスリックは、「音楽美は音の結合の連関の中に存する」という。「作曲家の精神の中に一つの主題が、一つの動機がひびく。……芸術家のファンタジーの中にひとたびこの種子が落ちるや、彼の創作は始まる。すなわち、この主題から出発し、つねにここに関係づけつつ、これをあらゆるさまざまの連関の中に表現しようという目標を追及する。」「この形成物の中にあるすべては主題の自由な結果であり、作用であって、主題により制約され、形成され、主題により支配され充実される。」(2)これはいわゆる主題展開ないし動機労作の謂にほかならない。音楽を主題展開のプロセスとして捉えるというこの考え方を、ブラームスも基本的には共有していた。また、言うまでもなくこうした主題展開の技法はベートーヴェンによって飛躍的に高められたものであり、その可能性を更に追及し発展させていくことこそ、「保守派」の人々にとってはベートーヴェンの正統的な後継者が採るべき道であった(3)。ブラームスが交響曲を創作する上で追及し達成した「完成度の高さ」とは、何よりもまず主題展開や動機労作の緻密さ・綿密さであり、それに基づく構築性の堅固さを意味していたと考えられる。
この、ブラームスがとりわけ交響曲の領域で顕著に示した主題展開ないし動機労作の手法は、彼独特のものであると同時に、歴史的にも重要な位置にある。その特徴は、第一に基礎となる「種子」がごく小さいものであること(従ってここでは主題展開より動機労作という表現の方がふさわしい)、第二にその「種子」となる動機に於いて重視されるのが専ら音程関係であり、リズムはむしろ柔軟に変化し得ること、である。特に第二点は、ブラームスの動機労作技法をベートーヴェンのそれから決定的に区別する特徴であると同時に、後のシェーンベルクの音列技法に影響を与えるものとして重要な意味を持つ。こうした「種子」、すなわち「基本動機」というべきものが個々の交響曲の中でどのようにふるまっているかについては、これまでもあまたの伝記や楽曲解説書などで言及されてきた。それによれば、各交響曲に固有の基本動機は大抵曲の冒頭、第一楽章の序奏や第一主題の中で明確な姿を示し、その後第一楽章の展開の中で頻繁に用いられるだけでなく、第二楽章以下に於いても顔を出して、交響曲全体を統一的にまとめる役割を担う。そうした性格からこの基本動機は従来しばしば「モットー」と呼ばれ、中には伝記作者カルベックなどのように、そこに詩的・標題的な意味を認めよう試みる者もあった。だが標題性に関しては、いかんせんブラームスが何らの手がかりも残していないために真偽のはかりようがない。そこに踏み込まぬ限り、ブラームスの交響曲に対する理解を深めるために、その最も重要な側面である動機労作を手がかりとすることは依然有益だろうと思われる。本稿でもとりあえず、各交響曲の基本動機とそのふるまいを改めて眺めていくことにする。
交響曲第一番の基本動機は、C-C#-Dの半音階的上行である(譜例1)。これはまず曲の冒頭、ウン・ポーコ・ソステヌートの序奏で、執拗なティンパニの打音を伴いつつ重苦しいほどの緊張感に満ちた響きを醸して聴き手の耳に焼き付く。ここではヴァイオリンとチェロの基本動機に、その反行形である管とヴィオラの下行進行が対位的に重なって、緊張を更に高めている(譜例2)。この対位的重なりは、アレグロの主部(第一主題)でもそのまま保持される(譜例3)。第一主題全体の中では、この基本動機の部分はむしろ続くヴァイオリンの跳躍音型の為のアウフタクトおよび伴奏という印象を与えるが、しかしこのヴァイオリンの主題に備わっている一種の躍動感は、基本動機の半音階進行との対比によって一層際だっている、ということは見過ごしてはならないだろう。一方、第二主題の中にも、基本動機の反行形を認めることができる(譜例4)。第一楽章ではこの他にも至るところで基本動機に出くわすが、中では特に展開部の後半とコーダが顕著である。
第二楽章では、基本動機は「動機」としてはっきりと用いられてはいないが、主題旋律の中にそれとなく埋め込まれている(譜例5)。第三楽章でも、エピソード風の旋律(譜例6)に同様の「埋め込み」を見ることができるが、基本動機としての認知度は第二楽章のものより更に低い。
第四楽章では、基本動機は出てこない。動機としての明確な使用はおろか、中間の二楽章のような「埋め込み」の形ですら、認められない。ここでは、ごく当然のことながら、この楽章自身の第一主題の動機(譜例7)が最も重要な素材となっている。本来G-C-H-Cの四音からなるが、アウフタクトのGはしばしば省略されるので、むしろC-H-Cの三音動機と見てもよい。この動機は、第一楽章に於ける基本動機と全く同様に、まず序奏の冒頭でヴァイオリンによって提示され、主部では様々に変形されながら頻繁に用いられる(譜例8)。とりわけコーダでの執拗な繰り返しは圧倒的である。
こうして見てみると、この曲の場合、動機労作の技法は全曲を通して綿密に行われているものの、基本動機による全体の統一が最後まで徹底されている訳ではないことがわかる。この曲の基本動機は、一部の解説書が言うほど「全曲の中心動機としてどこでも重要な役目を演じ」ている訳ではない。むしろ正確には、それは第一楽章に於いて最も重要であり、曲の進行とともに影が薄くなって行くのである。
交響曲第二番の基本動機はD-C#-Dの刺繍音的音型で、これはまず曲頭、あらわな形で低弦によって示される。役割としてはホルンによる第一主題に対するアウフタクトという感じだが、主題そのものには基本動機の反行形が含まれている(譜例9)。この辺りの主題と基本動機の関係は、第一楽章第一主題の場合とよく似ている。基本動機はこのあと第二主題部の後半で変形されながら用いられ(譜例10)、当然展開部やコーダでも、時に縮小や変形を受けながら頻繁に登場する。
第二楽章では、基本動機は副次的な楽想の中に埋め込まれている(譜例11)。一方、第三楽章は一見基本動機が用いられていないようにも思われるが、やや柔軟に考えれば主題旋律の最初は基本動機の反行形になっている(譜例12。ちなみに同箇所の第一ファゴットは基本動機と同じD-C#-Dの音程関係を持っている)。
第四楽章では、第一主題の中に基本動機が含まれている(譜例13)。間に休符が入っているものの、フレーズの冒頭ということもあって動機としての認知度は高い。これは後に縮小変形されるとより明確になるが(譜例14)、更に後半になって三連符に変形されると、今や第一楽章に於ける基本動機の形と完全に一致する(譜例15)。
交響曲第二番では、第一番の場合とは異なり、基本動機による全曲の統一がかなり徹底して行われている。ブラームスの作品の中でもとりわけ明るく旋律美に富み、また短期間で作られたという事情も手伝って、第一番を仕上げた後のほっとした気分の中で比較的気楽に作られたという印象を与えがちなこの曲だが、動機労作の手法に関する限り第一番よりも一層巧妙で周到に作られていると言わねばならない。
交響曲第三番の基本動機はF-Ab-Fという上方跳躍形である(譜例16)。主調のヘ長調にはないAb音を含むことによってむしろ同主短調の響きを暗示させる特異な性格を持っており、これまでに見た第一番や第二番の基本動機と較べて特に「モットー」としての印象が強い。これは冒頭、まず管楽器の力強い和音として提示され、第一主題が始まるとそのバス声部として主題を支える。第一主題は、形の上では基本動機と逆の下行跳躍形だが、その中に基本動機が埋め込まれている(譜例17)。第二番第一楽章の時と同じ手法である。この後、基本動機は時に第一主題とともに、また時に単独の形で、頻繁に現れる。
第二楽章での基本動機は、ここでもやはり主題の中に埋め込まれている。最初の方のフレーズでは印象が薄いが、後になってはっきりする(譜例18)。第三楽章では、主題を伴奏するヴァイオリンの音型に基本動機を見ている文献がしばしばあるが、これはむしろ主題そのものの輪郭の方に基本動機の反映を見るべきかと思われる(譜例19)。
第四楽章では、最後のコーダで基本動機が回想される。特に一番最後の部分は第一楽章の終り方を明らかに模倣したものであり、それによって交響曲全体の有機的なまとまりがはかられているのである。だが反面、終楽章の本体では、基本動機は殆ど姿を見せない。交響曲第一番での終楽章と同様、ここでももっぱらこの楽章独自の主題とその動機(譜例20)が素材として駆使されているが、それらと基本動機との間には、例えば第二番の終楽章で見られたような密接な関係がないのである。
基本動機による全体の統一という点から見ると、交響曲第三番はちょうど第一番と第二番の中間に位置付けられる。全体をまとめようという意図は明確であり、それは主に終楽章コーダでの基本動機の回帰によって実現されている。しかし動機統一は第二番ほど徹底したものではない。従ってもし終楽章のコーダがなければ、基本動機の影響力は第一番の場合同様曲の進行とともに衰えていくことになっただろう。
ここまで見てきたところで、気付くことがある。第二番では基本動機による統一がかなり徹底していたが、第一番と第三番では基本動機の影響力は後ろの楽章ほど弱くなり、終楽章は殆ど独自の動機によって組み立てられていた。そこで、その第一番と第三番の終楽章の動機(譜例7と譜例20)を較べてみる。驚くべきことに、リズム単位は異なるものの、両者は基本的に同じものではないか。更にそこからリズムを捨象すると、C-H-Cという刺繍音的三音動機の実体が現れるが(譜例21)、これは第二番の基本動機D-C#-Dと一致する(5)。第二番では終楽章でもこの動機が用いられていたから、結局三つの交響曲の終楽章は同じ一つの動機によってできていた訳である。これを「もうひとつの基本動機」と見ることはできないだろうか。
「もうひとつの基本動機」を意識しながら第一番と第三番を聴いていくと、それが終楽章に至る前からそこここに顔を覗かせていることがわかる。第一番の場合、第一楽章にはないが、第二楽章の主題にからむバスの動きに含まれており(譜例22)、主題が再現される際の変奏の中にも用いられている(譜例23)。第三楽章では、主部と中間部、両方の主題の中にこの刺繍音的動機が含まれている(譜例24)。一方、交響曲第三番の場合は早くも第一楽章の第二主題部でそれに出会う(譜例25)。第二楽章は主要主題の中に含まれているほか(譜例26)、副次主題や伴奏音型などにも頻繁に認められるし、第三楽章では主要主題の中間部などがそうだ(譜例27)(6)。
残る第四交響曲は、どうか。第三番までの基本動機はいずれも三音動機であったが、ここでは少し様子が違う。第四番で基本動機に相当するのは、三度音程である。冒頭の第一主題、しなやかでロマンティックな旋律美に満ちたこの主題は、実は三度音程とその展開からできている(譜例28)。これ自体が既に基本動機の展開なのである。背後の木管の伴奏音型では、旋律進行上の三度のみならず、縦の響きとしても動機展開を実現している。その後の展開では、明白に第一主題の形をとったものの他、例えば第二主題に伴うバスの伴奏形に、第一主題の骨組みと同様の三度下行音列が見られる(譜例29)。ただ、基本動機の単位がここまで小さいと、あらゆる分散和音形を動機の展開と見なすことさえ可能になる訳で、判断が難しい。
第二楽章と第三楽章には、明白な形で基本動機と指摘できるものはない。強いていえば、第二楽章冒頭のフリギア旋法による主題旋律がホ音を中心に上下三度づつの範囲内で動いている点が、基本動機の反映と見られるかも知れない(譜例30)。
第四楽章は周知のとおりパッサカリアである。冒頭に提示される主題は上行順次進行を特徴とするもので、そこに三度動機の反映は見られない。ただし曲も終結間近、コーダ直前の二つの変奏部分で、明らかに基本動機の反映と考えられる三度下行音列が現れる(譜例31)。第三番の場合ほど明白ではないが、それと同様、終楽章の終りに第一楽章の素材を再帰させることによって全体の統一をはかろうとしたものと考えられる。
総じて第四番の場合、基本動機の全体に及ぼす影響力は第三番までと較べるてかなり乏しいようである。では「もうひとつの基本動機」、第三番までに共通してみられた刺繍音的動機の方は、どうなっているか。例えば第一楽章第一主題の後半フレーズに、印象的な例がある(譜例32)。第三楽章の主題にも含まれている(譜例33)。第四楽章では、力強い第三変奏(譜例34)や印象的な第12変奏(譜例35)に見られる。だがいずれにしても、第三番までの終楽章に於けるような、それ自体が展開されるべき対象である動機として明確に存在している訳ではなく、いわば実体のない影としてその名残を留めているにすぎない。
交響曲第四番では、第二楽章の教会旋法や終楽章のパッサカリアに象徴されるように各楽章の個性、独立性がかなり強い。これは、むしろ基本動機による全体の有機的統一に対立する特質である。ブラームスは恐らく、この曲を第三番までの交響曲とは全く違った構成原理に従って作曲したと考えるべきだろう。
従来ブラームスの四つの交響曲は、その成立時期によって第一番と第二番、第三番と第四番の二曲づつにグループ化されることが多かった。だが動機労作という観点から見れば、四曲は第一番から第三番までのグループと、第四番のみとに明白に別れる。前者がベートーヴェン以来の動機労作を第一義とする構成法を発展させ、個性化する試みの中で生まれてきたものだとすれば、後者は、その実績の上で更に交響曲というジャンルで何か新しいことを試みようとした結果のように思われる。その試みが何処を目指していたのか。ブラームスがもう一曲交響曲を残していれば、それが明らかになったかも知れない。