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ミュージカルの歴史 第2回 音声付きスライド
history of musical #2 slide with audio

国立音楽大学2021年度講義『ポピュラー音楽研究F ミュージカルの歴史』第2回
オンライン授業用の動画と文字おこしです。
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◆配布資料

●動画1

2 1920年代の状況とガーシュイン(1)

●動画2

2 1920年代の状況とガーシュイン(2)

●講義内容(文字おこし)

・導入

前回は、まずミュージカルの現状についての問題意識から2016年の《ハミルトン》という作品に触れたあと、ミュージカルのルーツの話をしました。
一方に19世紀ヨーロッパのオペレッタやコミックオペラがあり、アメリカのルーツとしてはミンストレルショーやヴォードヴィルがありました。

感想もさまざまいただきました。
《ハミルトン》でラップを使っていたのが新鮮だったとか、ミカドの変てこな日本の描写やミンストレルショーの黒人差別が気になったとか、ジークフェルド・フォーリーズが宝塚を思わせるとか。
宝塚のことはいずれお話しますが、実はジークフェルド・フォーリーズがお手本にしたものと宝塚がお手本にしたものが、同じなんです。いってみれば兄弟みたいな関係なんですね。

さて、今回は、そのジーグフェルド・フォーリーズをはじめとすショー・ビジネスが盛んになり、私たちがイメージするようなミュージカルを生み出すことになる1920年代のブロードウエイと、そこで活躍したガーシュインについてお話します。

前回の復習になりますが、1920年代のアメリカの舞台は、ヴォードビルやレビューのようなバラエティ・ショーが中心でした。短い歌や踊り、コントや曲芸が次々に現れるというもので、全体を通してのストーリーなどはなかったのです。

音楽の基本はヨーロッパ由来の「オペレッタや大衆音楽」のもので、あまりアメリカ独自の感じはありませんでした。
ちなみにストーリー性のある本格的なミュージカルは、1927年の《ショーボート》という作品が最初になります。これについては次回取り上げますが、今日はまだその前の話です。

・ブロードウエイとティンパンアレー

 視聴:1920年代のブロードウエイ解説

当時、ブロードウエーの舞台に音楽を提供していたのは、ティンパンアレーと呼ばれる地域の楽譜屋さんでした。
(地図を見せる)
地図はニューヨークですが、緑色のセントラルパークの南に赤く示しているのがブロードウエイ。劇場がたくさん集まっています。
そしてその南の丸い印がティンパンアレー。ここに、たくさんの楽譜屋さんが並んでいました。
まだレコードもラジオもない時代です。 音楽は楽譜で伝わりました。 ブロードウエイに出演する人たちは、何かいい音楽はないか、とティンパンアレーに 楽譜を探しに行き、良い曲があったらそれを舞台で歌って、それがヒット曲になって 楽譜がまた売れる、と言う風に、ブロードウエイとティンパンアレーは互いに支え 合っていたのです。

舞台の役者さんやダンサーたちは楽譜が読める人が少ないので、楽譜屋さんには楽譜を実際にひいて聞かせてあげる仕事があって、ブラガーと呼ばれていました。
どんな様子だったかは、後ほどご覧ください。
ちなみにティンパンアレーとは、ブリキの鍋の道、という意味です。そこに行くと、いつもたくさんの音楽が鳴っていて、うるさい、まるでブリキの鍋をたたいたみたいだ、というところから、「ブリキ鍋横丁」と呼ばれるようになったのでした。

 視聴:ティンパンアレー解説

当時のティンパンアレーを代表する作曲家を二人紹介しておきましょう。
一人はアーヴィング・バーリン。いろんなヒット曲がありますが、だれもが知っている曲といえば、クリスマスになると必ず聞こえてくる「ホワイトクリスマス」でしょう。

 視聴:〈ホワイトクリスマス

もう一人が、ジェローム・カーン。スタンダードナンバーとして広く歌われている「煙が目にしみる」という曲は、聞けば必ず「聞いたことある」と思うに違いありません。。
この人は、先程少しご紹介した、ストーリー性のある最初のミュージカル、ショーボートの作曲家として、ミュージカルの歴史を大きく動かすことになります。

 視聴:〈煙が目にしみる〉

・ジャズ

さて、ブロードウエイでバラエティーショーが全盛だったころに、南部の港町、ニューオルリンズで、新しい音楽が生まれていました。ジャズです。
ニューオルリンズはその昔、奴隷貿易の中心地として栄えた町で、黒人がたくさんいました。彼らは故郷アフリカから持ってきた独特のリズム感や音楽性と、アメリカで身についてたヨーロッパ由来の音楽をまぜあわせ、これまでにない、自由な音楽を作り出したのです。

 視聴:ジャズの登場

・ガーシュイン

ジャズはたちまちアメリカ全体に広がり、さらには世界に影響を与えます。
当然ブロードウエイにも影響を与えることになるのですが、そこで貢献したのが、ジョージ・ガーシュインという作曲家でした。

ガーシュインは、ロシア系ユダヤ人の移民として、ニューヨークの貧しい環境に生まれました。周りには黒人たちがたくさんいて、ガーシュインは自然に黒人の音楽に親しんでいったのです。
ピアノがうまくなったガーシュインは、ティンパンアレーでお客さんに楽譜を弾いて聞かせるブラガーになりました。

そして自分自身も作曲するようになり、舞台関係の人たちとのつながりもできて、ブロードウエイの仕事もするようになります。
その1曲スワニーが大ヒットしたことで作曲家としての地位を確立し、指揮者ポール・ホワイトマンに認められてピアノ協奏曲を委嘱され、あの名曲ラプソディー・イン・ブルーを生み出すのです。

 視聴:ガーシュインの生い立ち

ブロードウエイの仕事としては、ジークフェルドと並ぶバラエティーのプロデューサー、ジョージ・ホワイトの舞台のためにたくさん曲を書きました。
その中の「ブルー・マンデー」という演目は黒人ばかりが出てくる話で、後のオペラ「ポーギーとベス」のもとといえるものです。

 視聴:〈ジョージ・ホワイト・スキャンダル〉、〈ブルー・マンデー〉

ストーリー性のあるミュージカルとして比較的成功したのは、1930年の「ガールクレイジー」という作品でした。その中の「アイ・ガット・リズム」は有名ですね。
ちなみにこの「ガール・クレイジー」を下敷きに、後の人がいろんなガーシュインのヒットナンバーをつけ足して、大幅に作り直したのが、今、劇団四季などが上演している「クレイジー・フォー・ユー」です。

 視聴:〈アイ・ガット・リズム〉(映画「ガール・クレイジー」より)

今回は1920年代のブロードウエー、ティンパンアレー、ジャズそしてガーシュインについて眺めました。次回はいよいよ本格的なミュージカルが登場します。お楽しみに。

吉成 順

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