*授業の回数(第13回)と動画の番号(12)がずれていますが、間違いではありません。
◆配布資料
12 日本のミュージカル(1-1)
12 日本のミュージカル(1-2)
今回は日本のミュージカルのお話です。
第2次大戦までは、ミュージカルは宝塚と浅草で、それぞれ独自の発展をとげてきました。
まず宝塚です。現在の宝塚歌劇団の始まりは、阪急電鉄が兵庫県の宝塚温泉を開発し、そこに電車を走らせたことに始まります。
どこの鉄道会社もそうなのですが、郊外に観光地を作り、都会にデパートを作って、都会の人には郊外に遊びに行っても
らい、郊外の人には都会で買い物してもらう、それで電車に乗ってもらう、ということをやります。
その先例となったのが、宝塚温泉で、そこに少女歌劇団が作られたのでした。
実は明治時代から、少年少女による音楽隊というのがありました。
最初は1895年にできた東京少年音楽隊で、ふつうの少年少女たちが笛やアコーデオンなど比較的やさしい楽器を鳴らして、町のイベントなどに色を添えていました。
そういうのをお店のPRにしようと考えたのが三越百貨店で、三越少年音楽隊は、男の子ばかりでしたが、当時としてはかなり優秀な吹奏楽団として知られ、後にプロの演奏家や作曲家になる人材も育てました。
三越のライバルだった白木屋、今の東急百貨店の前身は、三越に対抗して、女の子ばかり集めて少女音楽隊を作りました。音楽隊という名前ですが、こちらは歌が中心の、歌劇団のようなものだたと言われています。
こういう東の少年音楽隊、少女音楽隊の人気を受けて、阪急電鉄は宝塚温泉に宝塚少女歌劇団を作りことにしたのでした。
1910年、大阪から宝塚まで電車が通ることになり、宝塚には温泉にともなうアトラクションが作られることになりました。右の写真は、そのアトラクションのひとつとして作られたプールです。奥のステージのようなところの上のアーチ型の模様を覚えておいてください。
でも温泉とプールだけではお客さんが呼べなかったようで、3年後に目玉となる少女音楽隊を作ることになります。
今の宝塚はお姉さんばかりですが、当時は本当に少女、小学校5年か6年くらいの女の子が16人集められて、歌を歌いました。
最初は「唱歌隊」という名前でしたが、その後「少女歌劇養成会」と改称して、翌1914年に最初の公演を行います。演目は「ドンブラコ」「浮れ達磨」「胡蝶」という3本で、いずれも日本の伝統的な題材でした。
これは「ドンブラコ」の場面です。
左上の写真、ステージ上方のアーチ型の模様を見てください。さっきの写真のプールをそのまま歌劇場に転用したんですね。
「ドンブラコ」は名前から分かるように桃太郎のお話で、真ん中の写真はももから桃太郎が生まれるところ、右下の写真は桃太郎がイヌサルキジをお供にするところです。
今の宝塚の人たちが、これを再現してみたものを少しご覧ください。
視聴:「ドンブラコ」(宝塚歌劇90周年記念公演より)
宝塚の少女歌劇は評判を呼び、4年後には東京でも公演を行います。
ところで、4年も5年もたつと、最初は少女だった子供たちも、だんだんお姉さんになっていきます。そこで、大きくなったお姉さんたちを一応卒業生として区別して、生徒と卒業生の合同ということで公演を行うことになります。
卒業しても団員としては残りますから、人はどんどん増えます。そこで1921年には花組と月組の二組になり、24年にはさらに雪組を加えた三組の体制になって、3000人の大劇場も作られます。
内容の充実も図ろうと、演出家たちがショービジネスの本場パリに行って、最新のレビューを学んできます。
その最初の成果が1927年の「モン・パリ」、次が1930年の「パリゼット」でした。
写真の上が、「モン・パリ」。男装の女性たちがラインダンスを踊っています。
下は「パリゼット」。大階段や羽根のついた衣装が目立ちます。
今の宝塚を特徴づけるこうした要素は、このころに生まれたのです。
ちなみに、こうしたショーのスタイルを今でもそのまま受け継いでいるのは、世界でも宝塚くらいです。
そういう意味で、宝塚は日本を代表するだけでなく、世界的にも貴重な文化遺産なのです。
「モン・パリ」の中から「モン・パリ」、「パリゼット」の中から「おお宝塚」をお聞きいただきます。
この当時のレパートリーが今もずと歌い継がれているというのもすごいことですね。
視聴:「モン・パリ」(宝塚歌劇90周年記念公演より)
視聴:「おお宝塚」(宝塚歌劇90周年記念公演より)
さて、同じ頃の東京です。
江戸の頃から浅草には芝居小屋などの娯楽施設がたくさんあり、それは明治大正になっても変わりませんでした。
そんな中、オペラ・オペレッタを上演する小屋が浅草にあらわれ、浅草オペラは一大ブームを巻き起こすのです。
蕎麦屋の小僧さんが鼻歌でアリアを歌ってた、なんて話もあるほどです。
今オペラはなんだかお高い感じで、値段もお高くて庶民の手に届きませんが、当時オペラはポピュラーな存在だったんです。
これが当時の浅草です。日本風の芝居小屋ですが、左下に「大歌劇」という字が見えます。
右上の「のぼり」、旗にも歌劇座と書いてあります。
こっちの建物はモダンな建物で、「オペラ座」と書いてあります。
これは当時の浅草で上演されたオッフェンバックの「天国と地獄」の場面です。
鬼の口みたいなのが地獄の入口です。ちゃんとオケピットもありますね。
これは衣装を着て出番を待つ楽屋の風景。同じオッフェンバックの「ブン大将」という演目で、真ん中に座っているのが浅草オペラ一番のスター、テノールの田谷力蔵です。
この浅草オペラの中から、次の時代の喜劇スター、戦前と戦後の東京のミュージカル文化をつなぐ役割を果たす重要人物が
現れます。榎本健一、通称エノケンです。まずは彼のドキュメントをご覧ください。
視聴:エノケンのドキュメント
エノケンは浅草オペラ出身といってもオペラの発声は身に付けていませんでしたが、そのキャラクターを生かして、独特のダミ声で歌もたくさん歌っています。
これから見ていただくのは、彼が孫悟空を演じた映画の一部ですが、悪者の金閣と銀閣が、それを浴びると突然オペラが歌いたくなるというオペラガスを使って悟空たちを罠にかけるという場面です。
いろんなオペラの場面が次々に入れ替わるのですが、こういう映画が受けた、ということは、見ているお客さんたちがみんな「あ、これはあのオペラだ」と分かった、ということですから、いかに浅草オペラが親しまれていたかが分かります。
視聴:エノケン「孫悟空」よりオペラガスの場面
さて、戦後の東京のミュージカルは、エノケンのドキュメントの後半にも出てきたように、帝劇や東宝を中心に進んでいきます。
ところで東宝というのは、東京宝塚を略したものです。つまり東も西も、宝塚の影響で日本のミュージカルは発展した、ということですね。
戦後しばらくの時代は、たくさんのオリジナルミュージカルが作られます。
オリジナルミュージカルの最初は、1951年の「モルガンお雪」。
明治時代にアメリカの大富豪モルガンに見初められて結婚することになった京都の芸者、お雪さんを描いたもので、主役は宝塚出身のスター、越路吹雪が演じました。
まず、東宝ミュージカルの歴史を振り返るコンサートから、現代のミュージカルスターたちの歌でお聴きください。
視聴:「モルガンお雪」より(THE MUSICAL CONCERT at IMPERIAL THEATREより)
歌い手の顔ぶれも豪華、アレンジも華やかな感じでしたが、当時録音された音源は、こんな感じでした。歌うのは主役の越路吹雪、本人です。
視聴:「モルガンお雪」より(初演当時の音源)
さっきの映像と較べるとずいぶん地味な感じですね。たぶん実態は、これらの中間くらいにあったのでしょう。
帝劇ミュージカルを受け継いだのは東宝ミュージカルです。
1956年以来たくさんの作品が生み出されますが、たとえば黛敏郎のような、クラシック界でも日本を代表する才能がミュージカルを書いたりもしていました。
1964年の「君も出世ができる」では、黛敏郎の音楽はジャズの語法を積極的に取り入れ、ダンスには「ウエストサイド・ストーリー」の影響を見ることができます。
ちなみに作詞は谷川俊太郎です。
日本の企業に勤めるサラリーマンの物語で、主人公のサラリーマンを演じるのは高島忠夫、高嶋政伸・政宏兄弟のお父さん。アメリカ帰りの社長令嬢は雪村いづみ。美空ひばり、江利チエミとともに3人娘と呼ばれ、子供の頃から第一線で活躍してきた実力派です。
旅行会社に勤める主人公が、飛行場であこがれの砂漠に思いをはせていると、アメリカから社長が留学していた娘を連れて
突然帰ってきます。彼女は早速、社員たちにアメリカ流のやり方を学ぶように教えるのです。
視聴:「君も出世ができる」より
一方、その頃の大阪では、労音という組織がオリジナルミュージカルをたくさん作っていました。
労音というのは、高度成長期の日本を支えた労働者たちが、月々安い会費を払ってみんなで音楽を楽しもう、という音楽鑑賞団体で、その出し物としてミュージカルが作られたのでした。
「上を向いて歩こう」で有名な坂本九の歌った「見上げてごらん夜の星を」という名曲がありますが、この曲も、実は同名の労音ミュージカルのために作られたものでした。作曲はいずみたく、作詞は永六輔です。
都会の工場で働き、夜間の定時制高校に通う若者たちの青春を描いたものです。
視聴:「見上げてごらん夜の星を」映画版より「見上げてごらん夜の星を」
こんな風に戦後20年ほどは日本のオリジナルミュージカルがたくさん作られていたのですが、その後、日本のミュージカル
は大きく方向転換します。
アメリカのヒット作品を輸入して上演するようになったのです。
その第1作が、1963年の「マイ・フェア・レディ」でした。
さっき「君も出世ができる」で主人公を演じた高島忠夫がヒギンズ教授、主人公のイライザは江利チエミが演じました。
江利チエミは、「君も出世ができる」で社長令嬢を演じていた雪村いづみ、国民栄誉賞をとった歌手美空ひばりとともに3人娘と呼ばれた人で、ジャズも歌いこなせる実力派でした。
「マイ・フェア・レディ」自体の舞台映像がないので、その年の紅白歌合戦の映像をご覧ください。
視聴:「マイ・フェア・レディ」より「踊りあかそう」(1963年紅白歌合戦より)
この「マイ・フェア・レディ」に続いて、さまざまなブロードウエイのヒット作が日本で上演されるようになります。
1967年に宝塚が『オクラホマ!』 、1971年には四季が『アプローズ』 。その後も次々に外来のミュージカルが上演されます。
こうして日本のミュージカルの主流は、すっかりブロードウエイの焼き直しに持っていかれてしまうことになりました。
ということで、戦前から戦後までの日本のミュージカルの変遷をざっとみていただきました。
この続きは次回、最終回にお話しします。